2019年01月22日
カンチャナブリ(タイ)慰霊訪問
カンチャナブリ(タイ)慰霊訪問
日本人慰霊碑
f8473
カンチャナブリの戦場にかける橋(鉄橋)
f8465
戦争記念館にある各国の戦士合同慰霊碑
f8481
参戦した国の国旗
英、仏、日、タイ、韓、中
f8480
当時の蒸気機関車
f8489
戦争記念館
f8477
当時の刀、鉄砲 なんとクラシカル?!
f8478
昨年11月のビルマ慰霊訪問に続き
タイバンコク経由カンチャナブリ(戦場にかける橋)にある
日本人墓地と戦争記念館内にある戦死者墓を参拝してきました
これでインパール作戦に参加した親父のルートをほぼ確認できました
入営以来 満州事変、インパール作戦に足掛け13年
従軍の軌跡が大体わかりました
バンコクーモーライメンーラングーン(ヤンゴン)戦地に赴任
(シッタン川 渡河)
ラングーンーマンダレーーモーライーカレーワ で物資輸送に従事
(イラワジ川、チャンドウイン川渡河)
現在バンコクーヤンゴンはジェットが2時間間隔で出ています
戦争当時は1か月がかり
マンダレーーヤンゴンはプロペラジェットで90分
戦争当時は逃避行で半年、山中潜伏で半年
クエー河
f8486
鉄橋
f8492
天井に扇風機 懐かしい列車、物売りが来ます
f8506
指定席(100b)には冷水のサービス
f8513
この駅で下車、この先はビルマ国境(モールメン)
f8529
戦争当時の面影はほとんどありませんでした
しかも小乗仏教は 死んだら身も心も無くなる、
仏教とは修行する事と思ってるので お墓は有りません
我々日本人はどうしても墓参はしたくなります
戦後はこの生きて帰った人々が歯を食いしばって
日本の復興を支えてきました
せめて慰霊はしたいものです
クエー川沿いの リゾートコッテジ
f8526
ピックアップトラックで農作業に行く?!
フォード、マツダ、トヨタ
f8530
戦友の供養にささげた戦後 稲葉茂氏(故人)
http://www.joyoliving.co.jp/topics/200708/tpc0708036.html
茨城県石下市で燃料の問屋を手広くやっており
イラワジ川に似た鬼怒川にバコダを建立
毎年ビルマより僧侶を呼んで供養をしていました
シルバーライダー 鬼怒川にバゴダ
http://cb400rdhp.cocolog-nifty.com/test/2013/03/post-b151.html
東京生まれの私でも 稲葉茂さんにシンパシーを感じます
父のインパール作戦従軍記録
最後の4年半は 暑さと、マラリア、食料不足で厳しかったようです
s16、12,04 臨時招集(近衛輜重隊)独立自動車隊に編成かえ
s16、12,23 宇品港出航
s17、01,13 バンコク上陸
s17、03,09 タイ・ビルマ国境越境(モールメン)
s17.03.14 ラングーン着
イラワジ河沿いに 物資搬送に従事
s20、08、10 第三特設水路隊に編成かえ
(s20,08,15 玉音放送は知らされなかった?!)
s21、06、22 復員の為モールメン出航
s21,07、09 大竹港上陸
(11日付けで復員)
敗走状態となり、半年の間ビルマ山中に潜んでいたところ
英軍の応戦が無いので投降呼びかけに応じて初めて終戦を知った。
竹の子、バナナばかりで空腹には勝てなかった
英軍に出されたコンビーフを食べて 国力の差を知った
と聞かされていました
今思うと
田端義夫の「帰り船」を聞いて
大竹港に入港したときを思い
本当に
生きて帰れたと思ったでしょうね
https://www.youtube.com/watch?v=iKgPJH1b6io
波の背の背に 揺られて揺れて
月の潮路の かえり船
霞む故国よ 小島の沖じゃ
夢もわびしく よみがえる
捨てた未練が 未練となって
今も昔の 切なさよ
瞼あわせりゃ 瞼ににじむ
霧の波止場の 銅鑼(ドラ)の音
熱いなみだも 故国に着けば
うれし涙と 変わるだろう
鴎ゆくなら 男のこころ
せめてあの娘(こ)に つたえてよ
大竹港 引揚者
http://otake-history.halfmoon.jp/incident/war2/%E6%B5%B7%E5%A4%96%E5%BC%95%E6%8F%9A%E4%BA%8B%E6%A5%AD/
日本人慰霊碑
f8473
カンチャナブリの戦場にかける橋(鉄橋)
f8465
戦争記念館にある各国の戦士合同慰霊碑
f8481
参戦した国の国旗
英、仏、日、タイ、韓、中
f8480
当時の蒸気機関車
f8489
戦争記念館
f8477
当時の刀、鉄砲 なんとクラシカル?!
f8478
昨年11月のビルマ慰霊訪問に続き
タイバンコク経由カンチャナブリ(戦場にかける橋)にある
日本人墓地と戦争記念館内にある戦死者墓を参拝してきました
これでインパール作戦に参加した親父のルートをほぼ確認できました
入営以来 満州事変、インパール作戦に足掛け13年
従軍の軌跡が大体わかりました
バンコクーモーライメンーラングーン(ヤンゴン)戦地に赴任
(シッタン川 渡河)
ラングーンーマンダレーーモーライーカレーワ で物資輸送に従事
(イラワジ川、チャンドウイン川渡河)
現在バンコクーヤンゴンはジェットが2時間間隔で出ています
戦争当時は1か月がかり
マンダレーーヤンゴンはプロペラジェットで90分
戦争当時は逃避行で半年、山中潜伏で半年
クエー河
f8486
鉄橋
f8492
天井に扇風機 懐かしい列車、物売りが来ます
f8506
指定席(100b)には冷水のサービス
f8513
この駅で下車、この先はビルマ国境(モールメン)
f8529
戦争当時の面影はほとんどありませんでした
しかも小乗仏教は 死んだら身も心も無くなる、
仏教とは修行する事と思ってるので お墓は有りません
我々日本人はどうしても墓参はしたくなります
戦後はこの生きて帰った人々が歯を食いしばって
日本の復興を支えてきました
せめて慰霊はしたいものです
クエー川沿いの リゾートコッテジ
f8526
ピックアップトラックで農作業に行く?!
フォード、マツダ、トヨタ
f8530
戦友の供養にささげた戦後 稲葉茂氏(故人)
http://www.joyoliving.co.jp/topics/200708/tpc0708036.html
茨城県石下市で燃料の問屋を手広くやっており
イラワジ川に似た鬼怒川にバコダを建立
毎年ビルマより僧侶を呼んで供養をしていました
シルバーライダー 鬼怒川にバゴダ
http://cb400rdhp.cocolog-nifty.com/test/2013/03/post-b151.html
東京生まれの私でも 稲葉茂さんにシンパシーを感じます
父のインパール作戦従軍記録
最後の4年半は 暑さと、マラリア、食料不足で厳しかったようです
s16、12,04 臨時招集(近衛輜重隊)独立自動車隊に編成かえ
s16、12,23 宇品港出航
s17、01,13 バンコク上陸
s17、03,09 タイ・ビルマ国境越境(モールメン)
s17.03.14 ラングーン着
イラワジ河沿いに 物資搬送に従事
s20、08、10 第三特設水路隊に編成かえ
(s20,08,15 玉音放送は知らされなかった?!)
s21、06、22 復員の為モールメン出航
s21,07、09 大竹港上陸
(11日付けで復員)
敗走状態となり、半年の間ビルマ山中に潜んでいたところ
英軍の応戦が無いので投降呼びかけに応じて初めて終戦を知った。
竹の子、バナナばかりで空腹には勝てなかった
英軍に出されたコンビーフを食べて 国力の差を知った
と聞かされていました
今思うと
田端義夫の「帰り船」を聞いて
大竹港に入港したときを思い
本当に
生きて帰れたと思ったでしょうね
https://www.youtube.com/watch?v=iKgPJH1b6io
波の背の背に 揺られて揺れて
月の潮路の かえり船
霞む故国よ 小島の沖じゃ
夢もわびしく よみがえる
捨てた未練が 未練となって
今も昔の 切なさよ
瞼あわせりゃ 瞼ににじむ
霧の波止場の 銅鑼(ドラ)の音
熱いなみだも 故国に着けば
うれし涙と 変わるだろう
鴎ゆくなら 男のこころ
せめてあの娘(こ)に つたえてよ
大竹港 引揚者
http://otake-history.halfmoon.jp/incident/war2/%E6%B5%B7%E5%A4%96%E5%BC%95%E6%8F%9A%E4%BA%8B%E6%A5%AD/
Posted by シルバーライダー二世 at 12:43│Comments(0)
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